26. オスマン帝国の君主
ムスタファ3世
- 在位
- 1757 – 1774
- 生年
- 1717
- 没年
- 1774
改革の試みと長期にわたる露土戦争がこの時代にあたる。
ムスタファ3世は1717年1月28日、イスタンブールに生まれた。父はアフメト3世、母はミフリシャー・スルタンである。ムスタファ3世は背は中ぐらい、目は大きく、鼻は平たく、髭は黒く、威風ある頑健な体つきであった。きわめてよい教育を受けた。占星術に親しみ、イスラームとオスマンの歴史を研究した。
ムスタファ3世はきわめて信心深く、倹しく、慈しみ深く、勤勉で、寛大な人であった。二分間続いてイスタンブールの半分以上を崩した大地震では、家と身内を失った民を自らの財布から助けた。公正をもって裁き、不正をけっして見逃さなかった。嘘と偽善と賄賂を憎んだ。けっして驕らず、偉ぶらず、果たせぬことを約束しなかった。
ムスタファ3世は刷新が必要だと考え、改革を行おうとした。プロイセン王フリードリヒ2世の改革を聞き、アフメト・レスミ・エフェンディを遣わした。フリードリヒ2世はアフメト・レスミ・エフェンディを通じ、自らの成功の「三つの黄金の鍵」と呼ぶ助言をムスタファ3世に送った。
- 歴史を存分に読み、過去の経験から益を得よ。
- 強い軍を持つよう努め、平時にも兵を絶えず訓練せよ。
- 国庫はつねに金で満たしておき、経済を重んじよ。
この助言を聞いたムスタファ3世は苦笑し、それから「われらもこれを行う所存だが、その道はどこにあるのか」とつぶやいた。国にとって最大の災いはロシアから来ると考えていた。防備のため昼夜働き、あらゆる備えを整え、戦に用いるため国庫を金で満たした。
スエズ運河を掘らせることさえ考えていた。しかし職に就ける有能な人材がいないことが彼を悩ませた。ロシアとの戦の最中、憂いから病を得て、1774年1月21日、心不全により没した。
ムスタファ3世は軍に刷新が必要だという考えのもとに動いた。兵に訓練の規則を定めた。反対をものともせず銃に銃剣をつけさせた。新たな砲廠を設けて強力な大砲を鋳させた。海軍、築城、砲兵の学校を開き、年配の士官にさえ訓練を義務づけた。軍の改革ではハンガリー出身のフランス人バロン・ド・トットを大いに用いた。バロン・ド・トットはオスマンの砲兵を再編して近代化し、兵にヨーロッパ式の訓練を施した。
ムスタファ3世は詩人の君主であった。ジハンギルの号で書いた詩はたいそう名高い。詩には「エル=ファキール・ムスタファ・ハン=ウ・サーリス」と署名した。その一つにはこうある。
「Yıkılupdur bu cihan sanmaki bizde düzele
Devlet-i çerh-i denî verdi kamu müptezele
Şimdi ebvâb-ı saadetle gezen hep hezele
İşimiz kaldı heman merhamet-i Lem Yezel'e.」
- 男子:セリム3世、メフメト
- 女子:シャー・スルタン、ファトマ・スルタン、ベクハン・スルタン、ヒベトゥッラー・スルタン
出典:Osmanlı Tarihi Interaktif CD-ROM (Türk Tarih Kurumu Yayınları XXXI. Dizi-Sa.2)