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Söğüt / オスマン帝国の君主 / 29. 代

ムスタファ4世

1807 – 1808

ムスタファ4世 portresi

29. オスマン帝国の君主

ムスタファ4世

在位
1807 – 1808
生年
1779
没年
1808

改革反対の動きののち即位したが、治世は一年に満たなかった。

ムスタファ4世は1779年9月8日、イスタンブールで生まれた。父はアブデュルハミト1世、母はニュケトセザ・カドゥン・スルタンである。母はよい教育を受けさせようと大いに努めた。しかし野心的で狡猾、怒りやすい人であったムスタファ4世は、学問よりも遊興と安楽のうちに生きることを重んじた。

カバクチュ・ムスタファの乱の末に廃された従兄セリム3世に代わり、1807年5月29日に即位したとき、二十八歳であった。王子時代を通じて自らをわが子のように扱ったセリム3世に対し、反乱者と手を組み、その殺害を命じたことは、彼の人となりを物語る。

即位したとき、国家の中央の権威と統制は日に日に弱まり、セリム3世とニザーム・ジェディードの支持者は捕らえられた場で殺されていた。ムスタファ4世を即位させたカバクチュ・ムスタファとその一党は国政で大きな役割を果たし、自らの人間を要職に据えていた。

この乱ののち、オスマン国家はイェニチェリにきわめて大きな譲歩を与えた。だがイェニチェリの要求が尽きることはなかった。それどころか、オスマン史上まったく見られなかった協定が結ばれた。カバクチュ・ムスタファの乱で主役を演じたイェニチェリの長たちが身の安全を図って作らせたこの協定によれば、イェニチェリは国政に干渉せず、オスマン国家はこの乱についてイェニチェリ軍団の責任を問わない、とされた。

この混乱のさなか、セリム3世の支持者たちはルセの名士アレムダル・ムスタファ・パシャのもとに身を寄せていた。アレムダル・ムスタファ・パシャは露土戦争で大きな戦功を挙げ、軍の人々の共感を得ていた。

ムスタファ4世は書の道に親しみ、たいそう美しい書を残している。オスマン家のうち、ムラト5世に次いで在位の短い君主のひとりである。

  • 女子:エミネ・スルタン

出典:Osmanlı Tarihi Interaktif CD-ROM (Türk Tarih Kurumu Yayınları XXXI. Dizi-Sa.2)